作ってから考えよ

先日語ったEF66の台車について、一つ気になっていた事がある。

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作る過程で、見えないものを随分と細かく作らされるのだ。例えば、ある工程で、大きな歯車を苦労して車輪にくっつけたと思うと、次の工程では覆いを作らされて歯車はその中に隠れてしまう。モーターの精巧な模様も一緒に。完成したら見えない工程に何の存在意義があるのか。そんなのが幾つもある。

そんなところへ、あの記事に感応した同僚から、吊り掛け駆動方式というWikipediaの記事が送られてきた。これを読んだらガツンとやられてしまった。

 

全く僕は何を見ていたんだと思った。

 

Wikipediaの記事では、台車上にモーターを配置するという構造が、どういう意図で設計されたのかが解説されている。僕が無駄だと思っていた工程の一部は、この設計の肝になる部分を手でなぞるためであったのだ。隠れてしまう「のに」ではなく、実物では隠れている「からこそ」、内部構造を知るには模型でも作る他はないのだ。

吊り掛け方式とは、モーターの片側は車輪の軸にがっちり固定、反対側は台車にバネで吊る仕組み。まさにこれを作らされた。わざわざ台車に吊る方は接着しないという念の入れようで。ただ言われたとおりに作っただけだが、この手で作った後だから、その後で記事を見ていると、頭の中でその構造や働きが明瞭にイメージできる。写真のカレーと、目の前にカレーが実際あるのと位の違いだ。匂いや質感や、立ち上がる湯気がのようなもの。

他にも見逃していた物はないのか。更に読み進んでいく。この吊り掛け駆動方式というのは速度が上がってくると様々な問題が発生するので、向いていないとある。まてよ、EF66は高速運転用に設計されたと聞いたのにそれはおかしい。調べていくと別な記事に辿り着く。これは理解できなかったが、やがて機械学会に大昔に寄稿された記事に辿り着き、それに掲載されていた写真を見て、また目から鱗である。ああ、あの工程で作った物にはそんな意味があったのか。

前回の投稿には「全てが合理的」と偉そうに書いたが、僕はこの設計にどんな合理性が詰め込まれているのか、ほんの少ししか理解していなかった事が分かる。調べていくと、暗闇にパッと灯りを付けたようになって脳内麻薬がドバッと出る。美術館に二回目に行ってオーディオガイドを使うような気持ち。

 

話は茶道へと飛ぶ。僕の好きな日々是好日という映画で、多部未華子演じる主人公が、樹木希林演じる茶道の先生へ入門する。意味の理解できない茶道の細かい規則に辟易して、なぜ?と問うと、樹木希林は「考えるよりまずは体で覚えるのよ」というのである。意味は後からついてくる。

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まさにこれだと思った。意味も分からずまず作っているから、意味が後で理解できるのである。理解してから作るのではない。そして、意味も分からずまず作れ、という不条理は、その対象に合理性がないという事を全く意味しない。習い手が未熟だという、ただそれだけの事だ。茶道も技術も同じだ。僕の本業のソフトウェア開発にだって当てはまるところがある。これが、守破離の守か。

 

僕の中でEF66の台車はさらに輝きを増し、もはや後光が差し始めている。 

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