Livermoreでキャンプ

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子供が小学校に入って以来だから、かれこれ10年以上にはなるだろうか。子供の学校の友達で、4-5家族、家族ぐるみでお付き合いさせていただいている人達がいる。引っ越し、海外赴任などで少しづつ入れ替わってはいるものの、中には子供が生まれた時からお付き合いさせていただいている人もいる。宿題グループという名前がついている。

先週末に、この方達と一泊のキャンプをご一緒させていただいた。車で行ってテントを張り、焚き火を囲みながら大人たちは山海の美味に舌鼓、子供たちは自然の中で遊びまわる、そういう趣旨の会である。

朝起きてみると、娘が川の中に友達と作ったものがあるから観に来いという。そう言われてみれば昨日はテントを立ててから食事になるまで姿が見えないと思ったら、そんな事をしていたか。感心しながら上流へ向かうと、渓流を塞き止める手作りのダムが、川岸から2mばかり出来あがっている。僕が観ていると、友達の妹や弟と3人してせっせと岩を運んでは川の中に楽しそうに積み上げ始めた。

そんな子供達の笑顔を写真に撮ろうとして気づいてしまった。

僕は中学でコンピュータに出会って以来、自分で勝手にのめりこみ、そのまま現在に至っているので、自分は何をすべきかと悩んだ青春時代の経験がない。翻って、娘はまさに今、そういう悩みの真っ最中であり、ここ数年、両親としては色々な機会から何かが見つかればと課外活動を勧めてみたり、あるいは自分のやりたいことは自分で見つけるものだから自由な時間を作ってあげねばと悩んだりしていたのである。心配しすぎなのは分かっていたのだ。でもどうして心配せずにいられようか。娘には、親が買ってきたレゴを組み立てるだけの人間ではなくて、自分でバケツの中から何かを作り出す人になって欲しかったのだ。

ところが、こうして全然予想もしてないところで、僕がビールを片手に焚き火と友人と遊んでいるうちに、娘は誰にも何を言われるでもなく勝手に年下の子供達を連れ歩いて渓流を散策し、ダム計画を思いつき、それを実行に移しているではないか。ファインダーの中に写る笑顔。

ああ、よかった。この子はちゃんと自分の中にそういう力を持っているんだ。与えられたものを消化するのだけでなく、自分で何かを作り出すことができる力。

思えば、芽が出て何色かの花が咲くようにと、我々はせっせと水をやり雑草を抜いて、やれ葉の数が少ないと言っては心配し、多いと言っては心配する毎日であった。でも、親は花を咲かせようと思ったら、花が咲く代わりにやった土が唐突に粘土になって素焼きの花瓶が出来る、子供が育つとはそんなものなんじゃないだろうか。

勘違いしないで欲しいのは、じゃあ水やりをせず放置すれば良いのかというと、決してそうではないと思うのだ。むしろ、何が役に立つのか五里霧中の中、何かを絶え間なく与え続けてこそ、何か美しいものができるんじゃないだろうか。
そう思った時、僕の心は色々な人への感謝で胸が詰まりそうになる。

まずは、何と言っても嫁さんである。僕が世界を飛び回って自分のやりたい事を追求している間に、毎日毎日水やりと雑草抜きを15年間続けてくれているのはこの人である。自分のやっていることの何が何に繋がるのはわからず、それでいてその祈りのような営為なくしては花も花瓶も何も生まれてこない。見えないところでそれを続けることの凄まじさ。

そして、キャンプやら新年餅丸め会やらを通じて、娘に両親が提供できない貴重な体験を与えてくれ続けている宿題グループの皆さん。ある人は褒め、ある人は努力を促し、ある人は釣りを教え、色々な人がそれぞれのやり方で、親の届かないところに水をやってくれているのである。このような付き合いを10年、まさに血の繋がっていない親戚と呼ぶ他はない。特に、家長に相当するTomofumi Okudaさんは大樹のような人で、僕のヒーローの一人である。

本当に素晴らしい人達に囲まれている幸せ。それに気付く幸せ。ああ、また何物にも代え難い一日に巡り合ってしまった。なんの前触れもなく。